前回の続きをどうしても吐き出しておきたかった男ずーやまです。
前回は幼少期の影響を受けた人物の例として父親をあげました。
もう一人、僕にとって幼少期の頃、とても嫌いな大人がいました。
それは野球部の監督です。
小学校2年生から6年生まで、地域の野球チームに加入していました。
野球は僕からやりたい!と言って入ったチームでした。
正直、両親は止めました。
僕はそういうタイプではないと。でも僕はそれでもやりたい。やるからには6年生まで続けるから。と言って、両親は折れてくれました。
野球自体は楽しかったです。今でも好き。
でも監督は最悪だったと今でも思います。
当時は週3で4時から8時くらいまで練習をしていました。
なぜか監督はちゃんと週3で4時にはきてくれていて、今思えばこの人はなんの仕事をしていたのだろうと思います。
髭面でちょっと小汚い風貌で、いつも下に紺色のスラックスを履いていました。
自営業だったのかな。。。
そして野球が好きな人だったんだなって。でも子供は好きじゃなかったのかもしれません。まあ教育者ではなく野球を教える人だったので、どの子供にも平等に接しろという方が無理があったのでしょう。
僕は野球が下手でした。
練習は楽しかったけど、辛いことも多かったし、なかなかうまくもなれなかった。
同級生は12名いたので、3人はベンチ。
僕は大体ベンチでした。
目立つのも好きじゃなかったから、試合で打席に立つと緊張してうまく打てなかったし、エラーもたくさんしました。
監督は野球が上手な人が好きでした。
逆に言えば下手なやつは嫌い。
僕は嫌われていたと思います。
初めて大人から受ける嫌悪に僕は傷つきました。
エラーをすると叱られて、罰として「グランド○周!」とかケツバットとかは日常茶飯事だったなと。
今でも覚えていることが一つあります。
当時エースだったピッチャーの同級生が練習の途中で体調が悪くなり、ダウンしたことがありました。監督はすごく心配して練習を中断し、自家用車のバンで自宅まで送り届けました。
そんなことがあった、数週間後、同じく僕も体調が悪くなり吐き気がしてきました。
体調悪そうにしている僕に気づいたのか気づいてなかったのかわかりませんが、監督は僕に一言もかけてはくれません。
どうにも耐えられなくなり、「休んでもいいですか」と進言したところ
「勝手にしろ」との返答。
とりあえず休めると思って木陰で座っていると、しばらくして監督が近寄ってきました。
大丈夫かの言葉を聞けるのかも思っていたら
「もう帰れ」と一言。
そういうと、そそくさと監督はホームベースに戻っていくノックを始めました。
エースの送迎を見ていなければ、僕も納得したのでしょう。
でも、あれを見た後の僕との対応が違いすぎて、驚きと悲しさに溢れていました。
監督にも予定があったのかもしれませんし、人なのでみんなに平等というわけにもいかないでしょうが、当時の僕は嫌われていると思いひどく落ち込みました。
ヘルメットの上から叩かれたことや、怒鳴られることはしょっちゅうでした。
僕自身もそこまで努力家でもなかったので、そこまで自主練もしてなかったし、野球部以外の友達の方が気も合っていてどんどん孤立していったように思います。
所属していたチームは強豪で県大会で1位になり、全国の大会にも出場しました。
そんなこともあって父兄も本気。
どうにも自分の息子がレギュラーに入れるようにと、打ち上げの時には監督に変わるがわるお酌をして、監督に気に入ってもらえるよう必死でした。
うちの母親は「あなたがレギュラーにどうしても入りたいなら私も頑張るけど、どうなの?」と言われ
「ん〜そこまで試合に出たいって思ってないかも」
と答えたので、そういう政治には無関心を貫いてくれました。
母親としては、きっと試合に出ている息子の姿が見たかったことでしょう。肩身も狭かっただろうし。ごめんねって今になって思います。
そんなこともあったり、時代の背景もあったりで、ちょっとした暴力は教育とみなされていたのでしょう。
そんなこんなで、体罰めいたことをちょこちょこされながらも、6年生になると、ほとんどそういうものは無くなったように思います。
僕も少しは上手になったのでしょうか。
それでも監督はいつも僕にはぶっきらぼうでした。
僕みたいな性格の人は嫌いだったのでしょう。
僕も嫌いだったし。
結局最後まで辞めずに卒業しましたが、途中何度も何度も泣いて、「行きたくない」と両親に訴えました。
両親も色々と悩んでたようで、「ここで辞めたら今まで頑張ってきた分が水の泡になてしまうのではないか。」と思っていたようです。
野球の技術というよりは精神的な面で、ちゃんと最後までやり切ったという達成感を味わって欲しかったみたいです。
なので、僕の意見を突っぱねたり、それでも辞めたいと思うなら自分でちゃんと話をしてきなさいと言いました。
結果的に続けてよかったと今でも感じています。
苦しい時に頑張って続けるということも時には大切だし、それを乗り切った時また違う次元で自分を見れる気もします。
当時からもう20年以上経ちました。
でも今でも時々、あの頃を夢に見ます。
周囲から孤立していろんな人に話しかけても無視される夢。
やっぱりトラウマだったんだとは思います。
悲劇のヒロインになるつもりは毛頭なく、そういうの悲しい経験って誰しも一つはあるのではないかと思いますし、人間関係に悩んだことがある人ならわかってくれる人もいると思います。
小6で野球を卒業し、中学生になって当時のチームメイトが野球部に入る中、僕は野球部には入りませんでした。入らなくて正解でした。そこで出会った友達とは今でも親交があります。
そして僕が中学に入って間も無くして、監督は病気で亡くなりました。
葬儀にも参列し、久しぶりに見る面々もありました。
チームメイトや父兄が泣いている中、僕は一切泣けませんでした。
むしろちょっと安堵とか嬉しさを感じてしまいました。
人は死んだら皆んな仏様になって、尊ぶべき存在になるという人もいますが、僕はそんな風に割り切れませんでした。
死んだ人の前で安堵とか嬉しいと思っている自分は頭がおかしいと思いましたが、当時は小学生時代のかなりの時間を野球に割いて、辛い思いを山ほどしてちょっと壊れていたのかもしれません。
葬式が終わって家に帰って、監督には興味もなかったし、知りたくもなかったけど、唯一思い出したのは監督は金平糖が好きということでした。
金平糖をアテに酒が飲める
と豪語してた監督。
お酒が飲めるようになった今、それを思い返しますが、金平糖で酒なんか飲めませんよ。全然理解できません。
最後の最後まで、僕は監督に寄り添えませんでした。
監督には監督の正義があり大切に思っていた人もいたのでしょう。
そういえば小指だけ爪を伸ばしていたのもキモかったし、禿げてるのに襟足だけ伸ばして結んでいたのも清潔感なかったな。
人間、そう簡単に人は許せません。そうやって思いを抱えながら、そして自分のしてきた不実なことは棚に上げて生きていくものなのでしょう。
僕は大切に思う人を大切にして、それを脅かす存在は排除していくかもしれません。